近現代以前の 日本における医学、その情熱

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現代日本に暮らす私たちは「病気」になってから厄介になるのが“医学”であり“医師”であると思い込んでいる。ちょっと「変だな、具合が」と思うと、病院の扉を叩く。医師が(多くの場合、数分間にわたって)問診してくれ、処方箋を書いてくれる。最近では医薬分業の場合が多いのでこの処方箋を持って今度は薬局に向かう。すると薬局では薬剤師が副作用や諸注意について書いた紙を打ち出してくれつつ、実にカラフルな「薬」を分けてくれる。自宅に帰ってこれを早速飲んで寝る。――といった感じであろうか。
しかし考えようによっては、これは何とも不思議な話なのである。本来、ヒトは(当たり前の話ではあるが)“病気”ではないのだ。体内には自ずからバランスがあって、これが保たれている限り不具合など感じない。そうであればこの「バランス」を保つことにこそ専心すべきなのであって、バランスが「崩れて」から後のことなど最初から考えるべきではないのである。
その意味で「医学」には実のところ二つあるのである。一つはいわゆる「病気になってから厄介になる」という意味での西洋医学。そしてもう一つは「病気になる前に“養生”すること」に重きを置く東洋医学。そして我が国は本来、前者を知らず、後者によって成り立っていた国なのであった。 一般には前者の導入をもって「近現代の始まり」とされる。しかし、そもそも東洋医学の根源は中国勢なのであって、そこからの移入をもって「近代医学の始まり」というべきなのではないか。――おぼろげながらそのようなことを教えてくれる“小説”に出会うことが出来た。服部忠弘『医の旅路はるか 曲直瀬道三とその師田代三喜篇』(パレード)である。 著者・服部忠弘はいう :
「日本の近代医学に先鞭をつけたのは、中国の金・元時代に主流をなした李朱医学といわれる。これを明の国から逸早く取り入れて日本に紹介し、医学教育の素地を作ってくれた人物がいる。
一人は、田代三喜といい、もう一人は曲直瀬道三という。
この二人が今日の近代医学につながる『仁愛』を基本にした李朱医学を高らかに唱えたのである。折しも、京都を焦土と化した応仁の乱が終わり、室町幕府が衰退の一途をたどる時期にあたる。諸国が下剋上の世となりつつあって、各地の有力大名が群雄割拠してきたころである」

私は医学について明るくない。もっと言えば「東洋医学」など全く知らないに等しい。しかしだからこそそもそも「医」とは我が国において何であったのか、かねてから興味があった。そしてこの“小説”に出会うことでこれまでのいくつかの謎が氷解したような気がした。例えば次のような一節を読んで、である :
「僧にして医をこころざした田代三喜は、明に留学し、李朱医学を学び、日本に持ち帰った。そののち、医療を加持祈祷などの宗教色から断ち、医の分断を図った。その正当性を三喜から受け継いで発展させたのが曲直瀬道三である。 上は皇族、将軍から下は一般大衆にまで唱導していった。 京都に『啓迪院(けいてきいん)』という教育塾を造り、室町時代後半から江戸時代を通じて、医学の後進指導に役立たせ、多くの門下生を育てた。まさに近代医学の夜明けを告げる日本医学中興の祖であった」

つまり当時の日本人にとって「医」とは命がけで留学し、学びとって来るものだったのである。そしてそれは秘されるものではなく、貴賤に関係なく、生きとし生けるものを救うべく、可能な限り多くの者に伝授されるべきものとして伝授されていったのだ。「白い巨塔」ではないが、全くもって医薬利権の巣窟と化してしまっている現代日本医学の実態と比べると、「どこからそうなってしまったのか」と悩んでしまう(もちろん現場で奮闘する医師たちはそのようなものとは無縁ではあるが。ただしそうした現場主義(臨床)ではなく、アカデミズム(研究)の方がなぜか優位になってしまっている現状が我が国にはある)。
この本で著者・服部忠弘が描く二人の主人公の内の一人・曲直瀬道三の生き様は実に痛快だ。「医」という、最高権力者であっても裸で向き合わなければならない領域で暮らしながらも、「茶」を通じて権力に近付きすぎ、最後は命を奪われた千利休とは全く異なり、“権力”そのものとは本能的に疎遠さを保とうとする。そして時に滑稽なまでに苦痛を訴える最高権力者たちに対し、「医に絶対はない」と諭しつつ、懇切丁寧に“養生”の術を教えるのである。もちろんその医術の対象はこうした権力者だけではない。京の都に疫病が流行った時、あらゆる階層の人々の命を守るべく、奮闘したのは彼である。師匠・田代三喜がその命の潰える瞬間まで教えてくれた医術をもって全国を歩き回り、人々を救うこと。――これが曲直瀬道三の人生そのものなのであった。 この“小説”を読んでいて大変気になったことが一つある。元来はビジネスの世界に身を置き、現在は健康太極拳の指導に当たりつつ、本書が「小説デヴュー」となった著者・服部忠弘がなぜこのような大作(500頁余)を書きあげたのかという、その動機である。
そうした疑問を抱きながら読み進めていくと、気になる記述があった。猛将・毛利元就に呼ばれ曲直瀬道三が宍道湖のほとりにある「洗合城」にいた時の下りである :
「ふた月も経ったある日、一通の書状が京から早馬で洗合城に届いた。 将軍の下命による早馬で、元就経由道三宛てのものだった。 道三は、書状の裏を見てその主が妻の絲であることにやや不安を感じだ。 その予期せぬことが、当たってしまった。 書付の内容はこうである。 御主人様へ 御当地の在職の御多用中のみぎり、恐縮に存じ上げ候 急用なるお知らせの儀有りて申し送り候 去る四月一○日の卯の国(午前六時ころ)、嫡男守真、京の流行病に罹り治療途上のなか、 病の一難を被り、身罷り候 なお、家中にて読経供養の上、法要を済ませ候 何はともあれ、お知らせの儀申し上げ候 御身御大事に 以上のような簡単な書付内容であった」

毛利元就はお悔やみの言葉をかけてくる。大事な可愛い嫡男の逝去という一大事において、曲直瀬道三の身を自らの治療のために止めおいたことを詫びたのである。しかし、曲直瀬道三は「彼が生きていた生命は、これまでのこと」と淡々と述べるにとどまった。あたかも「彼岸」と「此岸」との境を越えたところに屹立するのが医術を営む自分の役割なのであって、決して動じてはならないと自からに言い聞かせるように。――さりげない一シーンではあるが、ここに著者・服部忠弘を本書執筆へと駆り立てた、ある強い「何か」を感じた。そして「命を扱うもの」は、他を救うために前へ進み続けなければならず「命に泣いてはならない」という“医術”の抱える絶対的な自己矛盾をそこに見てとった。
人にはそれぞれの役割がある。そして一つの「役割」が終わりを告げた時、次なる「役割」として本を書き始める人物がいる。服部忠弘もその一人なのであろう。達観した気配を感じさせるその文体をもって同人が果たして次にどこへ向かうのか。今から心待ちにしている。