2021年10月11日
「世界秩序構想無き “外務省改革”を振り返る」

外務省を自主退職してから早いもので6年以上の月日が経った。その間、実にたくさんのことがあったが出会った方々から未だに尋ねられることがある。それは「なぜ貴方は外務省を辞めたのか」ということである。その都度、私からは相手の方が納得されるよう“理由”を掲げることにしている。その一つとしてよく触れるのが、外務省職員(当時)たちによるいわゆる「公金詐取」を巡る一連の不祥事である。2001年1月から耳目を集めることとなったこれら不祥事事件の渦中に私はいた。もちろん「容疑者」「犯罪者」としてではない。大臣官房総務課総括班長(後に法令班長)としてこれら不祥事の実態を外務省内において調査し、かつその結果を対外公表する調査チームで2年半にわたり勤務したのである。
事の顛末の詳細については別の機会に譲ることとしたいが、窮地に陥った当時の外務省が外部のコンサルタントたちの助言を受けて講じた対策は大きく二つあった。一つは私も参画した内部調査である。そしてもう一つが「外務省改革」を省内外に対して打ち出し、“刷新”をアピールすることで対外的な批判を食い止めようとする試みであった。
しかし率直にいってこの「外務省改革」とは何とも頼りないものであった。特に当時の私にとって最も納得がいかなかったのは、いわゆるノン・キャリアの職員たちがこうした公金詐取事件の行為者であったことが明らかであったにもかかわらず、そうした実態に焦点が絞られることはほとんどなく、むしろ彼らの待遇改善こそが急務であるとこの「外務省改革」ではされた点である。実態を知っている“調査官”たる私からすれば「盗人猛々しい」とは正にこのことであった。だが、それでも本業たる「外交政策の企画立案・遂行」に大幅な刷新が見られ、それによって我が国全体が裨益したというのであれば未だ救われる。実態はというとその後、むしろ日本外交は混迷の一途を辿り、もはや収拾のつかないところまで来てしまっていることは読者も御存じのとおりである。
「日本外交は一体どうなってしまうのか」――そう思っていた矢先に一冊の本に出会った。戸部良一『外務省革新派 世界新秩 序の幻影』(中公新書)である。その力強いタイトルもさることながら、“プロローグ”の冒頭にある描写で一気に引き込まれた :
「支那事変(日中戦争)が始まってから一年ほど経った 1938(昭和13)年7月30日(土曜日)午後3時、神奈川県大磯にあった外務大臣宇垣一成の私邸を八人の外務官僚が訪れた。東光武三、三原英次郎、牛場信彦、青木盛夫、中川融、甲斐文比古、高瀬侍郎、高木廣一の八人である。平均年齢二十八歳。外務省に入ったのはいずれも満州事変後で、入省後わずか数年の青年外交官たちであった」
満州事変が発生したのは1931年9月18日のことだ。ということはこれら少壮外交官たちが時の外務大臣の下に“殴り込み”に行った時、彼らはまだ入省7年程度であったということになる。現在でいえばようやく課長補佐になるかならないかの頃である。私事で恐縮であるが、例の外務省不祥事が起きた頃、私は丁度、入省8年目の「課長補佐」であったが、こうした痛快な“殴り込み”などおよそ知らない飼いならされた犬のような存在であったことを今でもよく思い出す。いずれにせよ、この本の冒頭で戸部良一が描いた出来ごとこそが後に「外務省革新派」と呼ばれる集団の存在が明るみに出た最初の出来事なのであった。彼らはなぜ「革新派」と呼ばれたのか。この本は次のように続ける :
「一般に戦前の外交官と言えば、穏健で平和主義的な親英米派であり、軍部に抵抗しながら結局はその横暴な力に押し切られてしまった、というイメージで捉えられがちである。だが、すべての外交官がそうであったわけではない。宇垣の私邸に押しかけた青年外交官・・・(中略)・・・のように、ときに軍部以上の強硬論を吐き、しばしば軍部と密着して外交刷新を実現しようと行動した人々もあった。彼らは、既存の国際秩序を否定して新しい世界秩序の構築を目指し、その実現のために日本の外交体制の『革新』を訴えた。1930年代の日本で、既存の統治体制の刷新と世界秩序の再編成を目指して行動していた勢力は『革新勢力』あるいは『革新派』と呼ばれたが、これになぞらえて、外交の分野での革新を唱えた彼らは、一般に外務省『革新派』と呼ばれる」
戸部良一も述べているとおり、彼ら外務省革新派は「今やほとんど忘れ去られてしまった」といっても過言ではない状況にある (恥ずかしながら12年間とはいえ、外務省において禄を食んだ私もこうした少壮外交官グループの存在をこの本で初めて知るに至った。外務省における一連の研修はおろか、様々な実務の現場でこれについて聞き及ぶことはなかったことを振り返れば、現在でもなお日本外交の現場で活躍するかつての同僚たちにとっても状況はほとんど同じと考えて差し支えないだろう)。しかし、冒頭にも述べたとおり、かつて21世紀早々の日本国外務省を襲った一大事態を振り返り、そこで語られた「外務省改革」なるものの実態をあらためて思い出す時、この「外務省改革派」が主張した日本外交の“刷新”と比べいかに卑小な事どもに当時の私たちがこだわり、かつそれをもって「改革」と称していたのかを思い知ってしまうのである。
無論、私は彼ら外務省改革派が主張したことをもって全て「是」とするものではない。特にそのリーダー格となった白鳥敏夫(在イタリア大使を歴任。戦後A級戦犯として起訴された)はその活発な言論活動を行えば行うほど自ら混迷の思想へと迷い込んで行き、ついには誰にも相手にされなくなってしまった感すらある。今から見ると余りにも稚拙な観念論に左右されたその言論は、現在の日本外交を考えるにあたって参考になる代物ではおよそない。
しかし、在外公館と東京にある外務本省との間の“伝書鳩”と揶揄されたり、あるいは日常的に高級料理・ワインを食することだけを仕事にする“宴会屋”と嘲笑されるだけの存在に堕してしまった感の拭えない現在の日本国外務省が失ってしまった何かが、血気盛んであった彼ら「外務省革新派」には感じられて仕方が無いのは私だけだろうか。戸部良一は彼らの足跡を辿った後、次のように総括する :
「外務省革新派は満州事変の衝撃をきっかけとして生まれた。人事停滞への不満を伏線とし、満洲事変によって日本外交が過去と決別したことを強調した。それまで日本外交が準拠してきた東アジアの国際秩序、いわゆるワシントン体制を、日本の対外発展を拘束するものであるとして否定し、新しい国際秩序を模索した。時代が人間の意識や思想のレベルから政治・社会のレベルまで構造的な大変動の只中にあると認識し、国際秩序の変化も日本外交の変化もその構造的変動の一部であると論じた。また、この大変動を理解するためには、その構造全体を把握する『世界観』あるいは『哲学』が必要であると主張した。こうして彼らは、日本外交の転換と、それを実現するための人事の刷新と機構改革を訴えた」
そう、彼ら「外務省革新派」が求めたものは、新しい秩序であり、そのための「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」こそ、彼らの振る舞いだったのである。それはある意味、明示維新以来、「近代」日本が辿りついた一つの結論なのであった。だがそれは一部において正鵠を射るものではあったものの、余りにも観念論的であり、レアールポリティーク(現実政治)にはなじまないものであった。そのため刀折れ矢は折れてしまったのである。
しかし、戦後彼らは再び外交の表舞台に戻って来る。かつて宇垣一成外務大臣を訪問した例の8人の少壮外交官は、亡くなった2名を除き、6名全員が特命全権大使にまで昇格した。また同様に外務省革新派の中核を担った牛場信彦は、外国為替管理委員会に入り、通商産業省に転じて通商局長を務めていたが、1954年に外務省に戻り、経済局長、官房審議官、カナダ大使、次官、アメリカ大使を歴任して退官し、1977年福田赳夫内閣の対外経済担当大臣にまで上り詰めた 。
混乱を極める現在だからこそ、同じく混乱を極めた時代を駆け抜けた先達たちから全力で学ぶべき時である。私は外務省を辞するにあたって上梓した著作の中で次のように記した :
「心構えとしては、世界の中の日本を生涯考えつづける者という意味で一生『外交官』でありつづけるつもりだということを、ここに改めて誓っておきたい」
激動の時だからこそ、一度袂を分かったはずの道に戻るということもある。そのことを先達である「外務省革新派」が辿った道程が教えてくれるような気がするのは私だけだろうか。そして思うのである、「なぜあの時、外務省“改革”ではなく、日本外交そのものの“革新”を唱え、全てを投げ捨てて同志を糾合し、行動しなかったのだろうか」と。
過去を冷静に見返し、同時に現在進行中の「危機」における打開策を求める者たちにとって必読の一冊、それが本著である。