「政治とカネ、その真実」

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今回は海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書)をご紹介します。 昔から大成した政治家が「自叙伝」「回顧録」を書くのには2つの理由がある。一つは後からあぁだ、こうだと歴史家に文句をつけられ、自分が思ったとおりの「書かれた歴史」が残らないようになるのを防ぐこと。そしてもう一つは為政者となってもやり残したことが多く、後世に託すというよりも、むしろ恨み節たっぷりで書きつづるパターンだ。特に首相や大統領などの「自叙伝」「回顧録」を読む際には、この二つのウェイトが気になって仕方がない。 1989年8月9日。第76代日本国内閣総理大臣に“弱小派閥”「河本派」の出身でありながら任命された海部俊樹の場合にはこの2つのパターンの内、どちらかというと後者なのだと思う。しかし日本勢の中でも内閣総理大臣にまで上り詰める人物が綴った文章である。それはそれで分かる人には分かるように様々な「仕掛け」が埋め込まれているのが大変興味深い。 後に「水玉模様のネクタイ」の首相で知られることになる海部俊樹が政治の師匠として仰いだ人物の一人が三木武夫だった。権勢の人・田中角栄を追い落とした「ロッキード事件」の際の総理大臣として采配を振るった三木武夫は、一般には「清廉潔白の人」として知られている。今回取り上げる海部俊樹の自叙伝『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書)にも確かに次のような一節がある :
「ロッキード事件では、田中角栄氏に続いて、佐藤孝行、橋本登美三郎両氏も逮捕され、二階堂進、加藤六月、佐々木英世、福永一臣各氏も灰色政治家となった。関係者が『記憶にございません』を繰り返した証言が世間の失笑を買ったが、党内では、事件を機にさらなる三木批判が沸き上がった。いわく、『仲間の逮捕を抑えなかった三木には、惻隠の情がない』と言うのである。 肝心要の田中派は、ピンチにあって普段以上の結束力を見せた。やるか、やられるか、喰うか、喰われるか。修羅場に強い田中軍団の『一致団結・箱弁当』の側面が、凄みをともない露わになった。 それでも三木首相は、『情報を公開し、できる限り国民に明らかにする。皆が、これほど大きな疑問を抱いているのに、蓋をしたのでは、日本の民主主義が救われない』と、一歩も後に引かなかった」
もちろん三木武夫総理大臣は「田中軍団」による猛攻にさらされる。世論が圧倒的に支持してくれていたのを頼りに、ついに三木武夫総理大臣は「衆議院解散」を決意する。もちろん多くの閣僚たちは反対するに違いない。そこで海部俊樹は総理大臣を支える内閣官房副長官として「15枚の辞任届け」を用意し、いざとなったらばこれを突き付けて罷免させる準備までしていたというのである。 しかし土壇場になってボス・三木武夫はそうは動かなかった。閣議前の打ち合わせでは、いざとなれば反対閣僚全員を罷免し、臨時内閣を作る方針であったにもかかわらず、結局は解散権を行使せず、内閣を改造するにとどめ政権を続投する道を選んだのである。もちろん当時の青年将校・海部俊樹はボス・三木武夫に詰め寄る。するとボスは次のようにポツリといったのだ : 「わしは、独裁者じゃないからな。『議会の子』である以上、民主主義のルールは守らなければいかん」 正に“political reality(=政治的現実)”である。結局、腰砕けになった三木武夫内閣に対する世論からの風当たりが今度は厳しくなり、直後に行われた選挙(第34回衆議院議員総選挙)で“敗北”する。少数派に対し、多数派がここぞとばかりに喰らいついたことは言うまでもない。 この本の中では“political reality(=政治的現実)”という単語は用いられていない。しかし師匠である三木武夫を論ずる中でもう1か所、このことについて触れている。舞台は2年後の1978年2月。日米間の航空機・戦闘機購入に絡む汚職事件となった「ダグラス・グラマン事件」である。 この時の三木武夫の対応について、海部俊樹は次のとおり述懐する :
「この事件で、三木前首相は清濁あわせ持った一面を見せた。軍用機が絡むだけに、ロッキード事件より“奥の院”への影響が大きいと考えたのだろう。『なんでも無菌状態にすれば良いわけでもない』と話していた。『バルカン政治家』の異名を持つ氏の、常日頃とは違う発言だった。正直、私自身は肯きかねたが、『真相は、三木さんや松野(註:頼三)さんに訊いてくれ』としか、今では言いようがない」
さて。やや趣を変えて、総理大臣関係者の回顧録で面白いのが、外交に関する記述である。日本の政治家たちは「議員外交」等といって休みになると公費で外国に繰り出すが、実際にそこで仕事をしているのかというと、形だけの会談や訪問日程をこなすだけで実のところ全くの御遊び旅行である。それが「外交権」を掌握する内閣の長(=総理大臣)となると全くもって立場が変わって来るのである。正直、そこでようやく本当の政治家になるといっても過言ではない(先ほどの“奥の院”といった表現など、正にそこでの体験に培われたものだろう)。 その意味でこの本には、かつて外交官であった筆者の眼から見ると「ん??」と思わざるを得ない個所がいくつかある。その一つが1991年4月に合計13時間を超すマラソン会談となった日露首脳会談に関する次のような下りだ :
「私とゴルバチョフ大統領の会談まで、北方領土には『南クリル諸島』と表現されていた。私は、共同声明を発表するにあたり、『南クリル諸島』ではなく、『歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島』と明記するよう主張した。目をそらしたら負けだから、一瞬も離すことなく大統領の目をしっかと見続けた。とうとう大統領は、ソ連首脳として初めて四島を明記した上 で、『領土問題の解決と平和条約の締結を目指す』という内容の『日ソ共同声明』を自らの手で書いた」
そして海部俊樹は言うのである。――「とにかく、日本とロシアの間にそういう経緯があるのだから、間違っても四島返還を二島返還にすり替えてはならない。日本は、苦しくても悔しくても食いしばって、四島でなければダメだと主張し続けなければならない」 その後、時が経っていつの間にか「二島返還という現実的アプローチこそ善、四島返還という教条主義こそ悪」という“言論” が一部の自称「インテリジェンス専門家」らによって創り上げられてきた感がある。確かに海部俊樹は政界を引退した身であり、決して晩年「成功した」政治家ではない。しかもこの「回顧録」においても、これまで散々依拠してきたはずの小沢一郎について、大人げない恨み節を綴ってある。しかし内閣総理大臣しか成し遂げられない「外交」という権限については、あくまでも真摯な人物であり続けていることが、この一節からは分かるのである。歴史を改ざんし、国土を引き渡そうとする輩とは比べ物にならないほどの高潔さと愛国心の顕れであることは言うまでも無い。 2011年。明らかに政治は機能不全に陥りつつある。だからこそ「今こそ言わねば」という著者の衝動が伝わって来るのがこの本だ。掛け値なしで面白い。是非、“これから”を考えるためにお勧めしたい。