今回は武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く―マテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)をご紹介します。
いつも思うことなのだが、世の中には2種類の本がある。一方には時を忘れて読み耽ってしまう本がある。頁をめくっているという感覚もなく、正にそこに書いてある世界に自分自身が飲みこまれるような、そういう本である。他方では頁をめくるのが億劫で仕方のない類の本もある。確かにたくさん書いてあることは書いてあるのだが、どうにもこうにも詰まらない。当たり前のことをもっともらしくカタカナ混じりで書いてあったりするのだが、とにもかくにも「意味が無い」のである。
確率でいうと世間には後者の類の本が多い。特に「ベストセラー」などと言われている本にはこういったタイプが多い。中には余りにもスカスカの内容で「読者を舐めているのか!」と怒りたくなる本もある。そのような中で今回、ふと立ち寄った書店で巡り合った本が私をしばし虜にしてくれた。武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く ―アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)である。
一般に日本人は神道というと「国家神道」のイメージで考えてしまいがちだ。明治維新後の「近代化」の中で元勲たちが考え出した統治のための装置、それが「国家神道」である。確かにそれはその後のファシズムの世界においてアジア諸国に暴力をまき散らすための一つの道具立てとなった。そのことに疑いを差し挟む余地は全くない。 しかしふと考えてみて頂きたいのだ。「神道とはいわゆる“宗教”なのだろうか」と。たとえば「神道」には教典がない。キリスト教であれば「聖書」、イスラム教であれば「コーラン」といった具合に「これをまず読みなさい」という書かれた教典があるのが海の向こうでいう“宗教”である。ところがそれが「神道」には無いのである。
また私たちは人生の節目になると神社へお参りに行く。しかしそこで祈っている先にいるのは生身の人間である神官ではないのである。ましてや傍らで御守りやおみくじを売ってくれている巫女さんでもないのである。それなのに私たちは一身に拝殿に向かってお辞儀をし、祈りを捧げるのである。
これらのことから素人目にも分かるのは、どうやら「国家神道」と「神道そのもの」は全く違うのではないかということなのである。確かにかつて大惨事を招いた「国家神道」は排斥された。しかし「神道そのもの」は既に日本文化、いや日本人の生活そのものの中にビルト・インされており、拭いとろうとしても無理だということ。これがまず議論の出発点となってくるのである。
しかしそう考えた上でもなおその「教義」は気になるのであって、これまた素人がちょっとだけ踏み込もうとするとぶつかる壁が一つあるのだ。それは「皇祖神アマテラス」を巡る問題である。なぜこれが問題なのかといえば、私たちは一方でこう聞かされているからである。――「日本という国を生んだのはイザナギとイザナミである」と。
素直に考えれば「ではそのイザナギとイザナミの夫妻こそが最高神であるべきだ」ということになろう。ところが「神道」においてはそのように考えられてはいない。どういうわけかアマテラスが登場し、しかも男性ではなく女性こそが最高神として崇め立てられるのである。それではこのアマテラスとは一体どこから現れたのだろうか。
このことを探究したのがこの本『伊勢神宮の謎を解く』である。著者の武澤秀一はまず皇祖神アマテラスを崇め立てる「総本山」であるべき伊勢神宮に着目する。なぜならばその創設を巡るストーリーを追えば、当然、主人公であるべき「アマテラス」についてもルーツが分かるはずだからである。
「伊勢神宮の創祀年代については、従来から諸説あります。主なものをあげますと、
(1)『日本書記』をそのまま認め、垂仁の代とする説
(2)五世紀後半、大王・雄略の代とする説(および、6世紀前半から半ばにかけての継体・欽明の代とする説)
(3)7世紀後半、天武・持統天皇の代とする説
(4)7世紀末、文武天皇の代とする説」
そして武澤秀一は上記(2)を岡田靖司に依る形で採用した上で、「5世紀」という舞台設定に注目するのである。当時の日本(倭)は朝鮮半島に進出していたが、北からやってきた高句麗に敗れるという外交・安保政策上の一大転換点を迎えていた。その結果、「この手痛い敗戦から、倭国は早急な改革の必要を自覚するにいた」るのであって、「それは軍事の問題にとどま」るものではなく、内政面でも「豪族の連合によるゆるやかな結びつきから、上意下達の徹底した専制王権の確立がもとめられた」のである。
しかし事態は日本(倭)にとって風雲急を告げる形で推移した。それまで朝鮮半島において日本(倭)と朝貢関係にあったのは百済であるが、それがついに475年に滅亡するに至ったのである。これを知った雄略天皇は百済救国の手だてに追われることになる。
そしてこうした強烈な対外危機の中で創祀されたのが伊勢神宮だったというわけなのである 。ところがここで雄略天皇がとった大国・高句麗との「思想戦」を巡る戦略がふるっていたと武澤秀一は言うのだ:
そう、敵対する相手を呑み込んでしまう逆転の発想――。今日でも政治的局面でよく見られます。日本特有の発想といってでしょうか」
このように対外的な危機がそのまま国家イデオロギーの「大転換」へと連なった結果、崇められるようになった神こそタカミムスヒなわけである。ところが、天武・持統朝の時代になると、この国家的最高神であったはずのタカミムスヒが大きく後退し、いきなり新たな「皇祖神」が登場する。“アマテラス”である。
「これまでこの問題はほとんど取り上げられることなく、曖昧なままに置かれてきた」わけであるが 、この点についても本書は鋭く、しかし同時に分かりやすく切り込んでいる。その“謎解き”はいよいよ本書そのものに委ねたいと思うわけであるが、一言だけヒントを言えば、剥き出しの武力によって権力を獲得し、それでいながらスメラミコトになるという荒業を成し遂げるため、天武天皇にはどうしてもそうした(今度は国内的な意味での)「思想戦」を企てる必要があったのではないかということである。そのことを描いていく中で、武澤秀一は何故に伊勢神宮正殿において「心の御柱」(タカミムスヒの御神体。床下中央にある)と「神鏡」(アマテラスの御神体。正殿中央にある)が存在しているのかを解き明かしていくわけである。
この本を読んで脳裏にはっきりと浮かんでくるのは、対外的、あるいは国内的な政治危機にあって奮闘し、我が国を統べるためにいかにして「思想戦」を勝ち抜くべきかと悩み抜く「大君」そして「天皇」たちの姿である。時代は移り、「平成」の世ではあるが、誰の眼にも明らかな“大転換”の時代を迎えている昨今の日本を考える際のヒントが意外にもそこに読み取れると考えるのは私だけであろうか。いずれにせよ、まだまだ続く乱世の時代だからこそ、落ち着いて没入した一冊である。