世間には「永遠の課題」となっている関係がいくつかある。一番俗な話でいえば「男女関係」がその一つであろうが、私がここで注目したいのは「科学とビジネス」の関係である。なぜそうなのかといえば、一方において科学とはドイツ語でいうところのWissenschaft(ヴィッセンシャフト)であり、「仮説と検証」を旨としつつ、あくまでも真理探究のために行われるべきものだと一般には信じられているからだ。しかし他方で「武士は食わねど高楊枝」というわけにはいかないのであって、科学者も糊口を拭うために「ビジネス」をしなければならない。しかるに後者の度が過ぎてしまうとどうしても「ねつ造」「歪曲」といった問題が科学研究にはつきまとってしまう。したがって科学者は両者の間で絶えず煩悶するということになる。
本 IISIA マンスリー・レポートでもかつて取り上げたテーマであるが、日本勢における「国立大学法人」への移行(=独立採算制への移行)、さらには産学連携本部の設置に伴う知財ビジネスの展開などが正にこの“煩悶”を増す結果になっているように私には思えてならない。もちろん何事にも「勝ち組」はいるもので、大手メディアで盛んに取り上げられる幾つかの例は「成功」している。しかし、実態はどうかといえば大学を寝床にする研究者たちが甘言に惑わされ、大学発ヴェンチャーなる“錬金術”に手を出してしまい、ついには研究もビジネスも、その両方も出来なくなるまで追いつめられる例が後を絶たないのである。 そう思っていた矢先、一冊の本に出会った。宮田親平「『科学者の楽園』をつくった男」(日経ビジネス人文庫)である。理化学研究所とは去る1917年に「財団法人」として設立され、戦後に入り1958年に「特殊法人」へと改組、その後、2003年より「独立行政法人」として存続している日本勢の中では唯一の自然科学の総合研究所である 。 この本は草創期から第二次世界大戦後まもなく次期までにおけるその歩みを振り返り、特にその立役者であった大河内正敏の足跡にクローズアップしたものである。
事は1913年6月23日、東京・築地にあった「精養軒」で開かれた演説会から始まった 。この時、現場には山本達雄農商大臣と高級官吏、そして大倉喜八郎や馬越恭平といった財界人15名近い「朝野の名士」らが一堂に会していたのだという。そこでやおら白髪の紳士が立ちあがり、大演説をぶつ :
「要するに東洋にある材料はできるならば、どうか東洋の事業家、東洋の学者の手によってこれを価の高い物に変えて、そして世界にこれを広め、富を日本に吸収するような策を講じなければならぬことであろうと思います。・・・その責任は東洋の先進国であるこの大日本帝国に帰することと私は思います。そのへんから考えてみましても元に戻りましても基礎的な研究を行わなければならぬ。それをやはり明治時代の方針に基づいてまずできるだけ模倣するということも宜しい、模倣する余裕のある以上はどこまでも行わなければならぬけれども、いつまでも模倣のみではならぬ。いつか知らん新たな研究を始めなければならぬ。始めた以上は一日も早く始めれば一日も早く結果を得られる次第でありますから、どうか方法を設けてそうして先々この大正の御代の進歩の基礎を築くということを、諸君のお考えによって一つ立てるように御尽力を願いたいと思います」
しかし、問題はその後だった。――間もなく「終戦」となった第一次世界大戦。同時に日本勢は「大戦景気」から一転「戦後不況」へと突入する。そもそも財界の大物・渋沢栄一に無理やり協力を約束させられた感のある政府はこれ幸いとばかりに生まれたばかりの理化学研究所への支援を切りにかかる。「カネの尽きは運の尽き」とはよく言ったもので、一気に兵糧攻めを受けることとなった理化学研究所内では人事面でのゴタゴタも続き、長岡半太郎(物理部長)ら幹部が続々と辞表を提出。「もはやこれまで」と思った時、若き救世主に白羽の矢が立てられた。不惑の年を迎えたばかりの子爵・大河内正敏(東京帝国大学工学部造兵学科教授)である。
もちろん「火中の栗」をみすみす拾うほど大河内正敏も世間知らずではない。その辺りの顛末について宮田親兵は次のように記している :
「しかし、いくらなんでも、降って湧いたような急事態である。しかもこんな非常時に、多くの先輩の上に立って難局にあたらなければならないのでは、大河内がそう容易にウンというわけはなかった。・・・(中略)・・・が、長岡(註:半太郎)らの説得が成功したのであろう、(註:1921年)9月19日に至ってついに大河内が承諾の意を洩らし、ここに急転直下、四十三歳の三代目所長が誕生することになった」
しかしどこの専門職の世界でも一緒だが、好き勝手にやってもらってはいつの間にか組織とは「明後日の方向」へと向いてしまうのが研究者たちの性だ。それをつなぎとめるには所長である人物の人望と情熱、度量にかかっていた :
「このシステムを成功に導くには、所長の熱意が必要だった。そしてたしかに新所長は熱意に溢れていた。いままでの研究から離れた老大家の所長とちがって、所長自身、現役の研究者であり、イキがよかった。
正面横に建てられたバラックに所長室を設けて早朝からたてこもり、所内を一週に二度も三度もくまなくまわり歩き、お得意の、 『どうですか』
を連発した。
『研究テーマは自由です』
と、彼はいった」
正面横に建てられたバラックに所長室を設けて早朝からたてこもり、所内を一週に二度も三度もくまなくまわり歩き、お得意の、 『どうですか』
を連発した。
『研究テーマは自由です』
と、彼はいった」
ここで目を見張るべきなのが大河内正敏の英断である。大河内は当の鈴木梅太郎が「リスクが高いから止めよう」といったにもかかわらず、このビタミンAで作ったカプセル薬を工業生産することを決定。しかも自前で工場をつくり、大車輪で製造・販売し始めたのである。後に純益年間100万円にまで上ったというこの工業生産は正に理化学研究所の救世主となった。 その後も理化学研究所は「ヒット商品」とその種となるべき「発明技術」を次々と世に送り出していく。一方、大河内正敏はといえば一日の半分は理化学研究所に詰め、残り半分はそこで生み出された「発明技術」による製品を売りさばくべく1927年に設立した「理化学興業」を中心とする後の「理研コンツェルン」に詰める日々を過ごし始めることとなる。正に科学とビジネスという普通ならば相容れない関係にあって、歴史上稀にみる「蜜月」のひと時であった。
大変興味深いのは、こうして始まった「蜜月」の中で第二次世界大戦後の日本における政財界をリードする二人の傑物が大河内正敏とこれまた大変興味深い“シンクロニシティー”を描き始めるということである。その一人は戦後リコー三愛グループの総帥として君臨する市村清。そしてもう一人は何を隠そう、あの「昭和太閤」田中角栄である。二人とも子爵・大河内正敏から見れば全くもって触れあうはずの無い身分の者たちであったが、彼らは単身「理研の総帥」の下に乗り込み、その薫陶を受けることとなる。 もっとも理化学研究所を舞台、そして大河内正敏を主役とした劇にも似たこの稀有な「蜜月」は永遠には続かなかった。時代への嗅覚に人一倍優れていた大河内正敏は軍靴の鳴り響き始めた日本勢の中でいち早くこれに迎合、戦争協力のための技術開発に邁進し始めたからである(仁科芳雄らによる「原爆研究」がその典型であろう)。また何事もうまく行く時というのが危ないのであって、「経営者」として認められた大河内正敏は次第に独善的な経営を始めるようになり、そのことで後ろ指を世間から指されるようになる。それが戦後の「公職追放」へと連なっていく。
それでは「ザ・大河内カンパニー」とでもいうべき存在であった戦前期における理化学研究所をどのように評価すべきなのか。宮田親平はこの本の中で、評価されるべきは「発明」ではなく、その優れた人材の輩出であったと述べる :
「戦前戦後を通じて理研の研究者は、大学、他研究所、企業に散って第一線で活躍し、そのリストを見れば、戦後の日本を復興させた原動力となった科学技術のほとんどすべての分野を網羅してしまうものである。理研が供給した人材なくしては、今日の『技術大国』の繁栄は存在しなかったとすら考えられる」